政治家構造論 補論⑦|近さは理解ではない
人は、
近くにいることを、
理解していることだと思うことがある。
同じ場所にいる。
同じ時間を過ごす。
名前で呼ばれる。
声をかけられる。
内側の話を聞く。
役割を与えられる。
だから、
自分はその人を分かっていると思う。
だが、
近さは、
理解とは限らない。
近くにいるからこそ、
見えるものがある。
しかし、
近くにいるからこそ、
見えなくなるものもある。
恩恵を受ける。
居場所を得る。
役割を持つ。
特別扱いされる。
そうして人は、
違和感を飲み込むことがある。
おかしいと思っても、
言えなくなることがある。
傷ついた人の声より、
近くにいる人の物語を、
信じたくなることがある。
近さは、
時に、
理解ではなく、
共犯性を生む。
それは、
悪意とは限らない。
情かもしれない。
恩かもしれない。
期待かもしれない。
自分の居場所を守るためかもしれない。
だが、
理由が何であれ、
見えている痛みを見なかったことにすれば、
人は、
虚像を支える側に立つ。
政治家の近くにいる人ほど、
問われるものがある。
本当にその人を理解しているのか。
それとも、
その人の物語を守っているだけなのか。
本当に支えているのか。
それとも、
修正すべき失敗を、
見えなくしているのか。
近くにいる者に必要なのは、
忠誠ではない。
距離の近さに酔わず、
恩恵に飲まれず、
違和感を手放さないことである。
政治家を支えるとは、
政治家の虚像を守ることではない。
政治家が見失ったものを、
共に見に行くことである。
近さは、
理解ではない。
理解とは、
近くにいる自分自身の共犯性まで、
見つめることである。

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