政治家構造論

政治家構造論 補論⑨|責任とは自分が何をしたかを見ることである

人は、
傷つけられたことを、
覚えている。

何を言われたか。

何をされたか。

どれだけ苦しかったか。

どれだけ不公平だったか。

それを、
語ることがある。

それ自体は、
必要なことである。

被害を、
なかったことにする必要はない。

痛みを、
小さくする必要もない。

だが、
責任を引き受けるということは、
自分が受けたものを、
語ることだけではない。

自分が、
相手に何をしたのか。

そこを見ることでもある。

自分の言葉が、
相手を、
どう傷つけたのか。

自分の態度が、
どれだけ圧力になったのか。

自分の要求が、
どこまで相手の自由を、
奪ったのか。

自分の正しさが、
相手を、
追い詰めていなかったか。

自分の怒りが、
攻撃へ、
変わっていなかったか。

そこを、
見なければならない。

人は、
自分がされたことには、
敏感である。

だが、
自分がしたことには、
事情をつける。

仕方なかった。

相手にも問題があった。

自分も傷ついていた。

正しいことを、
言っただけだ。

相手のためだった。

そうして、
自分の行為を、
説明する。

だが、
事情があることと、
責任がなくなることは、
同じではない。

傷ついていたからといって、
人を傷つけていいわけではない。

正しいと思っていたからといって、
相手を追い詰めていいわけでもない。

善意だったからといって、
結果まで、
免責されるわけではない。

責任とは、
自分を悪者にすることではない。

自分を責め続けることでもない。

自分の行為が、
相手に何を生んだのかを、
見ることである。

だから、
反省は、
他人の罪を数えることではない。

自分の行為を、
現実へ戻して、
確かめることである。

もし、
自分が、
責任を語りながら、
相手が自分にしたことばかりを、
語っているなら、
まだ責任を、
引き受けてはいない。

もし、
自分が、
反省を語りながら、
その言葉を、
相手を責めるために使っているなら、
反省は、
攻撃へ反転している。

原理も、
同じである。

責任。

反省。

良心。

因果。

正義。

どれだけ正しい言葉を、
知っていても、
それを、
自分に適用しなければ、
人を裁くための道具になる。

本当に、
責任を引き受ける人は、
まず、
自分へ問いを向ける。

自分は、
何をしたのか。

何を見落としたのか。

何を正当化したのか。

どこで、
相手の余白を奪ったのか。

どこで、
修正できたのか。

その問いに、
不都合な答えが出ても、
逃げない。

それが、
責任である。

責任とは、
自分が受けた痛みを、
語り続けることではない。

自分が他者へ与えたものまで、
自分の現実として、
引き受けることである。

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