AXC原理

AXC原理|真理は人を自動的に救わない原理

人は、
正しいことを知れば、
正しく生きられると、
考えることがある。

知識を得る。

原理を知る。

真理に触れる。

仕組みを理解する。

それによって、
人は、
より良くなるように見える。

だが、
知ることと、
正しく使えることは、
同じではない。

知識を持っていても、
人を傷つけることはできる。

正しい言葉を知っていても、
自分を正当化することはできる。

原理を理解していても、
自分だけを、
その原理の外へ置くことはできる。

真理に触れても、
人格が、
自動的に変わるわけではない。

むしろ、
強い言葉ほど、
強い力を持つ。

自由。

正義。

愛。

信頼。

良心。

責任。

真理。

それらは、
人を立てるためにも、
使うことができる。

だが、
人を裁くためにも、
使うことができる。

自分を、
省みるためにも、
使うことができる。

だが、
自分の正しさを、
証明するためにも、
使うことができる。

問題は、
真理に、
力がないことではない。

力があるからこそ、
誰が、
どのように使うのかが、
問われるのである。

人が、
自分を修正する力を、
持っていなければ、
真理は、
自己正当化の材料になることがある。

自分は、
分かっている。

自分は、
正しい。

自分は、
真理を知っている。

だから、
間違っているのは、
相手である。

そうして、
真理が、
自分を見るための鏡ではなく、
他人を裁くための刃になる。

本来なら、
真理に触れるほど、
自分も、
問われるはずである。

自分は、
その原理を、
自分自身にも、
適用できているか。

自分に、
都合の悪い時にも、
同じ基準を、
使えているか。

間違いが見えた時に、
修正できるか。

自分の利益や、
立場や、
感情より、
現実を、
上に置けるか。

そこが、
問われる。

だが、
修正する器がなければ、
人は、
真理さえ、
今の自分を守るために使う。

そして、
自分を変えるはずだった言葉が、
自分を固定する言葉へ変わる。

自分を、
謙虚にするはずだった理解が、
優越感へ変わる。

人を、
立てるはずだった知識が、
人を見下す道具へ変わる。

自由を、
守るはずの思想が、
身勝手を正当化する言葉へ変わる。

正義を、
守るはずの原理が、
他者を断罪する武器へ変わる。

だから、
真理を知ることと、
真理に耐えられることは、
同じではない。

真理は、
自分にとって、
都合のよいことだけを、
語るものではない。

時に、
自分の過ちを、
示す。

自分の矛盾を、
示す。

自分が、
傷つけた側であることを、
示す。

自分が、
信じてきたものを、
問い直す。

自分が、
築いてきたものを、
壊さなければならないこともある。

その時、
なお、
現実を見ることができるか。

自分を、
修正できるか。

そこに、
受け取る器が現れる。

器とは、
多くを知っていることではない。

賢いことでもない。

難しい言葉を、
使えることでもない。

自分の正しさが、
崩れた時に、
逃げずに見られること。

自分の過ちを、
認められること。

必要なら、
考えを変えられること。

真理を、
自分だけの武器にしないこと。

そして、
知ったことを、
人を立てるために使えること。

そこに、
器がある。

真理は、
人を自動的に救わない。

知識も、
人を自動的に善くしない。

原理も、
人を自動的に正しくしない。

それらは、
人の中へ入り、
その人の人格によって、
使われる。

だから、
修正する器のない者に渡れば、
真理さえ、
未修正の自己を、
強化することがある。

真理が人を変えるのは、
真理を持った時ではない。

真理によって、
自分自身を、
修正できた時である。

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