AXC原理|人を数字に変えると良心が働かなくなる原理
人は、
目の前に、
一人の人間がいる時、
その人を、
簡単には傷つけられない。
顔がある。
声がある。
生活がある。
家族がいる。
願いがある。
恐れがある。
痛みがある。
それが見えている時、
人の中では、
良心が働く。
本当に、
これでいいのか。
この人を、
傷つけていないか。
この判断で、
誰かが苦しまないか。
そう問い始める。
だが、
人は、
目的を追う時、
相手を、
別のものに置き換えることがある。
一人の人間を、
数字にする。
票。
顧客。
件数。
売上。
支持率。
契約数。
成果。
標的。
そうして、
人間は、
目的を達成するための、
単位になる。
すると、
見え方が変わる。
一人の人が、
苦しんでいる。
ではなく、
数字が、
増えた。
減った。
達成した。
未達だった。
になる。
ここで、
良心が、
働きにくくなる。
良心が、
消えたのではない。
良心が、
反応する相手を、
見なくなったのである。
人間ではなく、
数字を見ているからである。
詐欺でも、
同じことが起こる。
相手を、
一人の人間として見れば、
その人が、
どれだけ不安なのか。
どれだけ孤独なのか。
そのお金が、
どれだけ大切なのか。
その後、
どれだけ苦しむのか。
それが、
見えてしまう。
だから、
相手を、
人間として見ない。
標的にする。
案件にする。
成功率にする。
金額にする。
そうすれば、
痛みを、
見なくて済む。
政治でも、
同じ危険がある。
人を、
有権者としてだけ見る。
支持率として見る。
票田として見る。
得票数として見る。
どの層が、
何%動いたかを見る。
もちろん、
数字は必要である。
社会を知るために、
統計は必要である。
選挙では、
票数も必要である。
行政では、
予算も、
人数も、
効果測定も必要である。
問題なのは、
数字を見ることではない。
数字の向こうにいる人間を、
見なくなることである。
一票の向こうには、
一人の人がいる。
一件の相談の向こうには、
一つの生活がある。
一人の失業者の向こうには、
家族がいることがある。
一人の高齢者の向こうには、
積み重ねてきた人生がある。
数字とは、
人間を、
見えやすくするための道具である。
人間を、
消すための道具ではない。
だが、
数字が目的になると、
構造は反転する。
人を守るために、
数字を使っていたはずなのに、
数字を上げるために、
人を使い始める。
票を取るために、
人へ近づく。
契約を取るために、
信頼を作る。
支持率を守るために、
言葉を選ぶ。
成果を出すために、
弱い人を切る。
すると、
人間は、
目的ではなく、
手段になる。
ここに、
良心の劣化が始まる。
政治家が、
票だけを見る。
企業が、
売上だけを見る。
組織が、
成果だけを見る。
犯罪者が、
金額だけを見る。
その時、
立場は違っても、
認識の構造は、
近づいていく。
人間を、
自分の目的を達成するための、
単位として扱うからである。
だから、
政治家には、
より強い自制が必要である。
政治には、
人を動かす力がある。
予算を動かす。
制度を変える。
人の暮らしを変える。
時には、
人の生死にまで、
影響する。
それほど大きな力を持つ者が、
人間を数字としてしか見なくなれば、
被害も、
大きくなる。
票が取れたから、
正しいのではない。
支持率が高いから、
人を守れているとは限らない。
数字が伸びたから、
社会が良くなったとも限らない。
問わなければならない。
その数字の向こうで、
誰が笑っているのか。
誰が苦しんでいるのか。
誰が、
見えなくなっているのか。
誰の痛みが、
数字の中に、
埋もれているのか。
人を数字にすると、
判断は、
効率的になる。
だが、
効率だけでは、
人間を守れない。
人を数字にすると、
比較は、
簡単になる。
だが、
比較だけでは、
尊厳は見えない。
人を数字にすると、
成果は、
測りやすくなる。
だが、
測れるものだけが、
大切なのではない。
だから、
数字を見るほど、
人間へ戻らなければならない。
データを見るほど、
現場へ戻る。
数字を見るほど、
声を聞く。
成果を見るほど、
誰が何を失ったのかを見る。
それが、
数字を、
良心から切り離さないために、
必要なことである。
人を数字に変えた時、
良心は、
働く場所を失う。
だから、
人を守る社会には、
数字だけでは足りない。
その数字の向こうに、
人間を見る力が、
必要なのである。

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