AXC原理

AXC原理|当たり前が感謝を奪う原理

人は、
自分の行為を、
当たり前だと思うことがある。

家族だから、
支える。

仲間だから、
助ける。

自分が、
できることだから、
やる。

それを、
自分の中で、
当然とすることはできる。

だが、
その当然を、
他者へ向けた時、
意味は変わる。

妻だから、
やって当たり前。

母親だから、
やって当然。

部下だから、
従って当然。

支援者だから、
手伝って当たり前。

そうして、
相手の行為が、
本人の選択ではなく、
義務として扱われ始める。

すると、
その人が、
どれだけ時間を使ったか。

どれだけ考えたか。

どれだけ疲れたか。

どれだけ自分のものを、
差し出したか。

それらが、
見えなくなる。

当たり前になったものは、
評価されにくい。

当然になったものには、
感謝が生まれにくい。

なぜなら、
「してくれた」
ではなく、
「するべきだった」
と受け取るからである。

だが、
他者がしてくれることは、
本来、
自分の権利ではない。

相手には、
やらない自由もある。

断る自由もある。

疲れることもある。

できないこともある。

それでも、
してくれた。

その事実を、
当たり前にしないから、
感謝が生まれる。

当たり前とは、
自分に向けることのできる言葉である。

自分が、
そうしたい。

自分が、
引き受けたい。

自分にとっては、
当然だ。

そう決める自由は、
自分にある。

だが、
他者の行為まで、
当然と決める権利はない。

自分の善意は、
当然として、
差し出してもいい。

だが、
他者の善意まで、
当然にしてはいけない。

人がしてくれたことを、
当たり前にしない。

それは、
相手の自由を、
見ることである。

そして、
相手の存在を、
見ることである。

感謝とは、
特別なことを、
してもらった時だけに、
生まれるものではない。

いつもあるものを、
当然ではないと、
もう一度、
見られた時に、
生まれるものである。

当たり前が、
感謝を奪う。

自分が、
与えたものは、
手放していい。

だが、
自分が、
受け取ったものまで、
当たり前にしてはいけない。

与えた恩は、
忘れていい。

受けた恩は、
忘れない。

その非対称さが、
人格を、
支える。

だから、
自分には、
当然を。

他者には、
ありがとうを。

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