AXC原理|死者の前で生者の在り方が現れる原理
人は、
死者の前で、
自分の在り方を、
隠しきれなくなる。
死者は、
反論しない。
否定しない。
評価しない。
見返りを、
返さない。
だからこそ、
その場には、
生きている人の、
在り方が現れる。
誰が、
前に出るのか。
誰が、
自分を語るのか。
誰が、
死者を使って、
自分を大きく見せるのか。
誰が、
遺族を見るのか。
誰が、
静かに悼むのか。
誰が、
場を、
自分のために使うのか。
死者は、
何も言わない。
だから、
生者は、
自由になる。
そして、
自由になった時に、
その人の、
欲が出る。
見栄が出る。
支配欲が出る。
自己演出が出る。
一方で、
慎みも出る。
思いやりも出る。
畏れも出る。
死者への敬意も出る。
時には、
自分を、
よく見せようとすることもある。
献身的だったように、
振る舞う。
深く愛していたように、
語る。
自分が、
どれほど尽くしたかを、
見せようとする。
だが、
その自己演出もまた、
その人の在り方である。
死者への献身を、
演じている時、
その人が見ているのが、
死者ではなく、
生者であるなら、
弔いは、
自己演出へ、
反転する。
だから、
葬送の場では、
人間性が、
露出しやすい。
死者を、
どう扱うか。
死者の名を、
どう使うか。
死者の思いを、
勝手に代弁するのか。
死者を、
自分の正しさの証明に、
使うのか。
そこに、
その人の姿勢が、
現れる。
死者は、
もう、
自分を守れない。
自分の名誉を、
守ることもできない。
自分の本音を、
訂正することもできない。
だから、
生者には、
より大きな慎みが、
必要になる。
死者を、
語る時。
死者を、
称える時。
死者を、
悼む時。
本当に、
見なければならないのは、
死者を使って、
自分を語っていないかである。
死者が、
喋れないからこそ、
生者の在り方が、
見える。
そして、
死者への敬意とは、
死者を、
自分のために使わないことである。

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