AXC原理|分かりにくいことは間違いの証明ではない原理
人は、
分かりやすいものを、
受け取りやすい。
短い言葉。
単純な説明。
すぐ意味が分かる話。
自分の経験に、
近い話。
そうしたものは、
頭に入りやすい。
反応もしやすい。
だが、
分かりやすいことと、
正しいことは、
同じではない。
分かりにくいことと、
間違っていることも、
同じではない。
現実には、
簡単には説明できないことがある。
複数の原因が、
重なっている。
立場によって、
見え方が違う。
一つの言葉では、
切り取れない。
例外がある。
条件がある。
反対の可能性もある。
だから、
説明が長くなることがある。
慎重になることがある。
すぐに、
結論だけを言えないこともある。
だが、
人は、
理解しにくいものに出会うと、
内容ではなく、
発信する人を、
評価することがある。
考えすぎだ。
難しくしすぎだ。
面倒な人だ。
おかしくなった。
そんなに、
深く考える必要はない。
そう言えば、
内容そのものを、
検証しなくても済む。
分からないことを、
分からないまま、
置いておく必要もなくなる。
相手の問題にすれば、
自分は、
考えなくて済む。
だが、
理解できなかったことは、
相手が間違っている証拠ではない。
読まれなかったことも、
内容が悪い証拠ではない。
反応が少ないことも、
正しさが失われた証明にはならない。
多くの人が、
同じことを言っているからといって、
それが、
事実になるわけでもない。
人は時に、
自分で見て、
考えて、
判断する代わりに、
周囲の反応を、
判断材料にする。
みんなが、
そう言っている。
人気がない。
反応が少ない。
評判が悪い。
それだけで、
内容を判断する。
だが、
数は、
真理を証明しない。
反応の多さは、
読まれた量と、
同じではない。
読まれた量は、
理解された量と、
同じではない。
理解された量は、
正しさと、
同じではない。
だから、
反応が減った時、
すぐに、
内容を変える必要はない。
新しい事実が、
見つかったのか。
前提に、
誤りがあったのか。
反証が、
示されたのか。
自分の説明に、
不足があったのか。
そこを、
確かめなければならない。
人気に合わせて、
正しさを変えることと、
現実によって、
自分を修正することは、
同じではない。
だが、
ここで、
逆方向の誤りもある。
伝わらないことを、
すべて、
受け手の責任にしてはならない。
自分には分かる。
だから、
分からない方が悪い。
そう考えれば、
発信する側も、
修正の外に出る。
内容は、
正しくても、
入口が遠いことがある。
言葉が、
難しすぎることがある。
前提が、
共有されていないことがある。
読者の経験と、
接続できていないことがある。
だから、
深度を下げる必要はなくても、
接続経路は、
変えることができる。
短くすることと、
単純化することは、
同じではない。
分かりやすくすることと、
説明を削ることも、
同じではない。
入口は、
短くできる。
問いは、
日常へ降ろせる。
言葉は、
やわらかくできる。
だが、
必要な前提や、
条件や、
例外まで、
削ってしまえば、
原理は、
別のものになる。
短い言葉は、
強い。
だからこそ、
危険でもある。
前提を失った言葉は、
自分を正当化するためにも、
他者を攻撃するためにも、
使うことができる。
だから、
深い説明には、
意味がある。
誤認を減らす。
条件を示す。
反対側を残す。
自分自身も、
検証対象に入れる。
それによって、
言葉は、
断罪ではなく、
判断の材料になる。
読む人が、
減ることはある。
難しくなれば、
途中で離れる人もいる。
それでも、
深さそのものを、
人気に合わせて、
捨てる必要はない。
問うべきなのは、
どれだけ、
反応されたかではない。
何が、
現実に合っているのか。
どこに、
誤りがあるのか。
どこなら、
より正確に伝えられるのか。
そこへ、
戻り続けることである。
分かりにくいことは、
間違いの証明ではない。
だが、
分かりにくさを、
放置してよい理由にもならない。
深度は、
守る。
入口は、
問い直す。
内容は、
人気ではなく、
現実によって、
修正する。
それが、
理解されやすさと、
正しさを、
混同しないということである。

まだ応答なし