AXC原理|自分の失敗を事情で説明し、相手の失敗を人格で説明する原理
人は、
自分の失敗には、
事情をつける。
忙しかった。
余裕がなかった。
知らなかった。
仕方がなかった。
誰にでもある。
そうして、
自分の失敗を、
一時的なものとして扱う。
だが、
相手の失敗には、
事情を与えないことがある。
だらしない。
無責任だ。
信用できない。
昔からそうだ。
やっぱり、
あの人は問題がある。
そうして、
相手の失敗を、
人格へ広げる。
自分の失敗は、
例外にする。
相手の失敗は、
本質にする。
ここに、
評価の非対称が生まれる。
同じ程度の失敗でも、
自分なら、
小さく扱う。
相手なら、
大きく扱う。
自分の過去の失敗は、
忘れる。
相手の過去の失敗は、
何度でも持ち出す。
自分には、
修正の機会を与える。
相手には、
修正の機会を与えない。
こうして、
人は、
同じ基準を使っているつもりで、
実際には、
自分と相手に、
違う物差しを使う。
そして、
排除したい相手がいる時、
この非対称は、
さらに強くなる。
相手の失敗は、
証拠になる。
やはり、
あの人は問題だ。
やはり、
離した方がいい。
やはり、
信用できない。
一つの失敗が、
過去の評価と結びつき、
人格全体の証明として、
使われる。
一方で、
自分の失敗は、
事情によって、
切り離される。
今回は、
たまたま。
自分には、
理由があった。
自分は、
悪気がなかった。
そうして、
自分の人格だけは、
守られる。
さらに、
人は、
責任を薄めるために、
集団を使うことがある。
みんなが言っている。
私だけではない。
前から、
そういう話があった。
多くの人が、
同じように感じている。
だが、
人数が増えたからといって、
判断が正しくなるわけではない。
責任が、
消えるわけでもない。
自分が、
その判断に加わったなら、
自分の判断でもある。
自分が、
その言葉を広げたなら、
自分の責任でもある。
「みんな」という言葉は、
自分の判断を、
正しくするものではない。
自分の責任を、
消すものでもない。
本当に、
フェアであるなら、
相手に使った基準を、
自分にも使わなければならない。
相手の失敗を、
人格の問題として扱うなら、
自分の失敗も、
同じように問わなければならない。
自分の失敗に、
事情を認めるなら、
相手の失敗にも、
事情がある可能性を、
認めなければならない。
相手に、
修正を求めるなら、
自分にも、
修正を求めなければならない。
相手を、
一度の失敗で固定しないなら、
自分もまた、
一度の失敗だけで、
自分を免責してはいけない。
フェアとは、
相手に優しくすることではない。
同じ基準を、
自分にも向けることである。
自分を斬らない正義は、
正義ではない。
自分だけを、
例外にする正しさは、
保身へ反転する。
そして、
保身したい人ほど、
自分の失敗を、
事情で説明し、
相手の失敗を、
人格で説明する。
だから、
人を評価する時、
問うべきなのは、
相手が、
どれだけ失敗したかだけではない。
自分が、
同じ失敗をした時、
どのように説明するのかである。
その説明を、
相手にも使えるか。
その基準を、
自分にも向けられるか。
そこに、
その人のフェアさが現れる。

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