AXC原理|萎縮を無能の証拠に変える原理
人は、
相手がうまく答えられないことを、
能力の不足だと、
判断することがある。
説明できない。
言葉が出ない。
判断が遅い。
同じ間違いを繰り返す。
だが、
その状態が、
どのように生まれたのかを、
見なければならない。
人は、
恐怖の中で、
普段と同じように、
考えられるとは限らない。
怒鳴られる。
責め立てられる。
言葉を遮られる。
説明を許されない。
何を答えても、
さらに怒られる。
すると、
人は萎縮する。
間違えないようにと、
考えるほど、
言葉が出なくなる。
相手の怒りを、
鎮めようとするほど、
自分の判断が、
できなくなる。
そして、
その萎縮した姿を見て、
怒鳴る側が、
さらに怒ることがある。
なぜ分からない。
なぜ答えられない。
なぜそんなこともできない。
そうして、
自ら生み出した萎縮を、
相手の無能さの証拠として、
扱い始める。
ここで、
原因と結果が、
反転する。
能力がないから、
説明できないのではない。
説明できない状態へ、
追い込まれている可能性がある。
もちろん、
人には、
実際に能力の差がある。
知識の不足もある。
判断の誤りもある。
仕事上の責任もある。
だが、
それらを確認することと、
恐怖によって生まれた反応を、
能力そのものと決めつけることは、
同じではない。
人の能力を評価するなら、
その能力を発揮できる条件も、
見なければならない。
そして、
この構造は、
一度の叱責では終わらないことがある。
怒鳴られることを恐れ、
質問できなくなる。
確認できなくなる。
異議を唱えられなくなる。
分からないことを、
分からないと言えなくなる。
その結果、
誤りを防ぐ機会が、
失われる。
そして、
誤りが起きれば、
また怒鳴られる。
こうして、
人を育てるはずの指導が、
人の判断力を奪う構造へ、
反転することがある。
さらに、
責任の所在まで、
見失われることがある。
誰が指示したのか。
誰が判断したのか。
誰に決定権があったのか。
なぜ異議を言えなかったのか。
それらを確かめず、
目の前で作業していた人だけを、
責める。
立場の弱い人だけに、
責任を負わせる。
だが、
実行した人が、
すべてを決めたとは限らない。
指示に従ったことと、
指示を決定したことは、
同じではない。
そして、
指示に疑問を持ちながら、
言い出せなかったのなら、
その沈黙が生まれた条件も、
検証しなければならない。
人は、
怒鳴れば、
相手を従わせることができるかもしれない。
だが、
従わせることと、
理解させることは、
違う。
沈黙させることと、
納得させることも、
違う。
恐怖によって、
人の動きを制限しながら、
その人の主体性や判断力を、
求めることはできない。
問われるべきなのは、
相手がなぜ答えられなかったのか、
だけではない。
相手が答えられなくなる状況を、
誰が作っていたのか。
そして、
その状況を、
誰が修正する責任を持っていたのか。
である。
人の能力は、
恐怖によって引き出されるとは限らない。
恐怖によって、
隠されることもある。
自ら奪った判断の余地を、
相手の能力不足として、
裁いてはならない。
自ら生み出した萎縮を、
相手の無能さの証拠にしてはならない。

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