AXC原理

AXC原理|加害の正当化が被害者評価を反転させる原理

人は、
嫌いだから、
相手を傷つけることがある。

腹が立った。

許せなかった。

気に入らなかった。

相手が、
間違っていると思った。

そうして、
傷つける。

だが、
人は時に、
逆の順序を辿る。

傷つけたからこそ、
相手を嫌いになることがある。

最初から、
嫌いだったわけではない。

悪い人だと、
思っていたわけでもない。

それでも、
自分は、
その人を傷つけた。

意地悪をした。

見下した。

陰口を言った。

仲間外れにした。

不当な扱いをした。

本来なら、
そこで問うべきものがある。

自分は、
何をしたのか。

なぜ、
そうしたのか。

相手は、
何をされたのか。

その行為に、
正当な理由はあったのか。

だが、
その問いに向き合うことは、
時に、
苦しい。

自分は、
そんな人間ではない。

悪いことをしたつもりはない。

自分には、
理由があった。

そう思いたい。

そこで、
人は時に、
自分の行為ではなく、
相手への評価を、
変え始める。

あの人にも、
問題があった。

以前から、
おかしいところがあった。

あの態度では、
嫌われても仕方がない。

自分だけが、
悪かったわけではない。

そうして、
相手の欠点を、
探し始める。

以前は、
気にならなかった言葉が、
気になり始める。

以前は、
問題にしなかった行動が、
許せなくなる。

一つの失敗が、
人格の問題に見えてくる。

相手の良いところは、
見えにくくなる。

そして、
自分が傷つけたという事実より、
相手が悪い人間だという評価が、
前に出る。

ここで、
認識が反転する。

相手が悪いから、
傷つけたのではない。

傷つけた自分を正当化するために、
相手を悪い人間として、
見始めたのである。

もちろん、
相手に実際の問題が、
ある場合もある。

相手の行為を、
後から知ることもある。

最初の評価が、
誤っていた可能性もある。

だから、
評価が変わったことだけで、
自己正当化だと、
決めつけることはできない。

だが、
相手の問題が、
事実であったとしても、
それによって、
自分がしたことまで、
正当化されるとは限らない。

相手の欠点と、
自分の加害は、
別々に、
検証されなければならない。

相手が、
未熟だったとしても。

相手に、
間違いがあったとしても。

自分が、
傷つけてよかったことには、
ならない。

ところが、
この区別を失うと、
人は、
相手の悪いところを、
見つけるほど、
自分が正しかったと、
思うようになる。

そして、
自分の行為を、
正当化するために、
相手への否定的な評価を、
繰り返すことがある。

あの人は、
こういう人間だ。

昔から、
問題があった。

みんなも、
そう思っている。

そう語るうちに、
自分自身も、
その評価を、
強く信じるようになることがある。

最初は、
自分の行為を守るために、
作り始めた説明が、
やがて、
相手を見る基準になる。

すると、
相手が何をしても、
悪く見える。

反論すれば、
攻撃的だと言う。

黙れば、
後ろめたいのだと言う。

傷ついたと訴えれば、
大げさだと言う。

そうして、
相手の反応までも、
自分の加害が正しかった証拠へ、
変えてしまう。

だが、
傷つけられた人の反応は、
傷つけた行為を、
さかのぼって正当化しない。

相手が怒ったからといって、
怒らせた行為が、
正しかったことにはならない。

相手が離れたからといって、
排除してよかったことにはならない。

相手が自分を嫌うようになったとしても、
最初から、
嫌われるべき人間だったことには、
ならない。

人は、
自分の行為によって、
相手との関係を変えることがある。

そして、
変わってしまった関係を見て、
最初から、
そういう相手だったのだと、
思い込むことがある。

だが、
結果は、
原因を証明しない。

自分が傷つけたことで、
生まれた反応を、
相手の本来の人格として、
扱ってはならない。

ここで必要なのは、
相手を好きになることではない。

無理に、
仲直りすることでもない。

自分を、
責め続けることでもない。

ただ、
評価と責任を、
元の場所へ戻すことである。

相手には、
相手の現実がある。

自分には、
自分がしたことがある。

その二つを、
混ぜてはならない。

自分が傷つけたことを、
認めたからといって、
相手のすべてが、
正しくなるわけではない。

相手に問題があったからといって、
自分の加害が、
消えるわけでもない。

人は、
間違える。

人を傷つけることもある。

その事実を、
認めることは、
苦しいかもしれない。

だが、
認めることによって、
初めて、
自分の行為を、
修正できる。

相手を悪者にしなくても、
自分の間違いを、
引き受けることはできる。

自分の間違いを認めても、
自分のすべてを、
否定する必要はない。

問うべきなのは、
あの人は、
どれほど悪い人間だったのか、
ではない。

自分は、
その人に、
何をしたのか。

そして、
その人への評価は、
自分がしたことを、
正当化するために、
変わっていないか。

である。

人は、
嫌いだから、
傷つけることがある。

だが、
傷つけたからこそ、
嫌いになることもある。

自分の行為を守るために、
相手の人格を、
作り替えてはならない。

相手への評価を変えても、
自分がしたことは、
変わらない。

だからこそ、
相手を裁く前に、
自分の行為へ、
戻らなければならない。

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