AXC原理|責任が見える人ほど権力をためらう原理
人は、
政治家になろうとする人を見て、
意欲があると思う。
志があると思う。
自信があると思う。
だが、
権力へ近づくことと、
人格が成熟していることは、
同じではない。
むしろ、
責任が見える人ほど、
権力をためらうことがある。
人を代表すること。
多くの人の生活に、
判断が影響すること。
一つの決定が、
誰かを救い、
誰かを傷つけること。
間違えた時に、
自分だけでは済まないこと。
それが見えるほど、
簡単には、
「自分がやる」と、
言えなくなる。
自分が、
正しいとは限らない。
自分にも、
見えていないものがある。
自分にも、
偏りがある。
自分も、
権力によって変わるかもしれない。
そう考える人ほど、
権力を、
軽く扱えない。
また、
人格が成熟している人ほど、
他人を押しのけてまで、
地位を取りに行くことへ、
違和感を持つことがある。
自分を大きく見せる。
自分を売る。
自分こそふさわしいと訴える。
相手より、
自分を選んでもらう。
選挙には、
そうした行為が必要になる。
だが、
それを得意とすることと、
人を預かる人格を持つことは、
同じではない。
ここに、
政治の入口の難しさがある。
権力を欲しがる人ほど、
権力へ近づきやすい。
権力を怖がれる人ほど、
権力から距離を取ることがある。
責任の重さを知らない人ほど、
簡単に手を挙げる。
責任の重さを知る人ほど、
自分でいいのかと、
立ち止まる。
これは、
人格者が、
政治家になれないという意味ではない。
人格者が、
立候補しないという意味でもない。
だが、
人格があるからこそ、
立候補をためらうことはある。
自信がないからではない。
責任が、
見えているからである。
だから、
立候補したという事実だけで、
志の高さを判断してはいけない。
自信の強さだけで、
器を判断してはいけない。
見るべきなのは、
権力を欲しがっているかではない。
権力を、
怖がれるかである。
自分の判断を、
疑えるか。
自分の誤りを、
認められるか。
権力によって、
人を従わせるのではなく、
信頼によって、
人を預かろうとしているか。
政治家に必要なのは、
権力を取りに行く強さだけではない。
権力を持つことを、
恐れられる良心である。
責任が見える人ほど、
権力をためらう。
だからこそ、
権力を持った時にも、
その重さを、
忘れにくい。

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